ネット上や都市伝説では「ダム湖の底には今も瓦屋根の民家がそのまま佇んでいる」といった幻想が語られがちです。しかし、実際の土木工学的な施工手順および関係省庁の工事記録に基づけば、それは事実ではありません。貯水が始まる前、水質汚濁防止や船舶航行の安全確保、浮遊木による放流ゲートの閉塞事故を防ぐため、家屋はすべて解体・撤去され、樹木も根元から徹底的に伐採されます。墓地も例外なく改葬され、遺骨や墓石は高台の代替地へと移されました。
したがって、平時のダム底に眠っているのは、建物の残骸そのものではなく、「生活の基盤であった構造物」です。頑強なコンクリート製の基礎、棚田の石垣、アスファルトで舗装された旧道、川に架かっていた橋脚やトンネル、そして神社仏閣の跡地を示す基壇などが、厚い堆砂の下に保存されています。
これら水底の構造物が人々の眼前に姿を現す瞬間があります。それが、降雨量の著しい減少によって貯水率が極端に低下する「大渇水」の時期です。近年でも少雨の夏や冬場に水位が急激に下がると、普段は数十メートルの水底に沈んでいる旧街道の白線やアーチ橋、学校の校門跡が泥の中からぬっと姿を現します。地元住民にとってはかつての記憶が蘇る切ない光景であり、歴史研究者にとっては水没直前の生活空間を直接検証できる貴重な瞬間となっています。