実生活で子供を育てた経験を持たないにもかかわらず、田中裕子の演じる「母」の姿は、観る者の胸を激しく揺さぶる。1983年のNHK連続テレビ小説『おしん』で世界的な社会現象を巻き起こした若き日から、近年の是枝裕和監督による映画『怪物』(東宝配給)に至るまで、その表現力は進化を止めていない。
映画『怪物』で演じた小学校の校長・伏見真澄役では、孫を亡くした喪失感と教育者としての冷徹な組織防衛の狭間に揺れる複雑な人間味を、わずかな視線の揺らぎだけで体現してみせた。自身の私生活を役作りの免罪符にすることなく、人間の深淵を徹底的に観察し、感情の襞をすくい取る知性。それこそが、幾多のヒューマンドラマを傑作へと昇華させてきた彼女の真骨頂である。