愛宕念仏寺の起源は古く、奈良時代末期の神護景雲元年(766年)、称徳天皇の勅願によって現在の京都市東山区・六波羅の地に「愛宕寺(おたぎでら)」として創建されたことに始まります。平安時代初頭には鴨川の氾濫によって堂宇を流失しますが、天台宗の高僧・千観内供(せんかんないぐ)が復興。千観が念仏を唱えて人々を教化したことから「愛宕念仏寺」と呼ばれるようになりました。
しかし、その後の歴史は苦難の連続でした。鎌倉時代から室町時代にかけての度重なる戦乱や応仁の乱で荒廃。大正11年(1922年)、堂宇の保存を図るため現在の嵯峨鳥居本へと移築されたものの、昭和25年(1950年)のジェーン台風によって本堂や諸堂が壊滅的な被害を受け、長く「廃寺同然の荒れ寺」として放置されることになります。
この壊滅的な状況に終止符を打ったのが、昭和30年(1955年)に天台宗総本山・延暦寺からの命を受けて住職に就任した西村公朝(にしむら こうちょう / 1915-2003)師でした。西村師は東京美術学校(現・東京藝術大学)彫刻科を卒業し、三十三間堂千手観音像など数多くの国宝・重文仏像修理を手掛けた日本屈指の仏師であり、同時に仏教哲学者でもありました。
荒れ果てた境内の再建にあたり、西村師が打ち出した構想は前代未聞のものでした。昭和56年(1981年)の本堂解体復元を機に、「寺の復興はプロの職人ではなく、一般の参拝者が自らの手で石仏を彫り、祈りを込めることで成し遂げるべきだ」と提唱。全国から集まった素人の参拝者に自らノミと金槌の扱い方を指導し、10年の歳月をかけて昭和末期の平成3年(1991年)に1,200体の羅漢像が完成しました。
境内の羅漢像がどれも個性的で、猫を抱く像、カメラを構える像、盃を酌み交わす像、満面の笑みを浮かべる像など自由闊達なのは、彫った人々が自らの家族、友、あるいは自分自身の人生の祈りをそのまま石に刻み込んだからにほかなりません。古美術の権威が一人で作った空間ではなく、「庶民の祈りの集合体」であることこそが、愛宕念仏寺が放つ圧倒的な温もりと生命力の正体です。