選挙の敗北と事業の立て直しを期して、勇二郎氏が再び活路を求めたのが中東のハブであるエジプト・カイロでした。
1970年代初頭、勇二郎氏は一家でエジプトへ渡航する計画を立て、娘の百合子氏を関西学院大学中退からカイロ大学留学へと導きます。オイルショックを目前に控えた時期であり、父の「アラビア語通訳になれば食いっぱぐれない」という直感は見事に的中しました。
カイロ現地において、勇二郎氏は日本料理店「桃李」の共同経営や現地ビジネスのコーディネートを画策。しかし、現地政情の不安定さや商慣習の違いからビジネスは容易ではなく、百合子氏が現地通訳やジャーナリストとして足場を固めていく一方で、勇二郎氏自身の現地事業は苦戦を強いられました。