日本社会において場面緘黙症が「ずるい」と叩かれやすい根本原因には、「みんな同じ痛みを耐えるべきだ」という特有の同質性信仰(我慢の平等主義)が存在します。「自分も朝礼が憂鬱なのに我慢して声を出している」「自分も恥ずかしいのに音読している」という抑圧されたストレスが、声を出さない当事者に向かって攻撃性として転嫁されているのです。
しかし、健常者が感じる「緊張や恥ずかしさ」と、緘黙児が直面している「死の恐怖に匹敵する自律神経の凍結」は、質的にも量的にもまったく次元が異なります。前者が「重い荷物を背負って走る苦しさ」だとすれば、後者は「両脚をロープで縛られて動けない状態」です。足が縛られている人に向かって「なぜお前だけ走らないのか」と詰め寄ることの不条理さに、社会全体が気づかなければなりません。
同時に、支援者や組織側にも重要な教訓があります。それは、「合理的配慮」と「放置・特権化」を明確に区別することです。周囲への丁寧な説明や、当事者に対する代替課題の提示を怠ったまま、ただ「話せないから何もしなくていい」と免除し続けるだけの対応は、合理的配慮ではありません。それは単なる「指導の放棄」であり、結果として周囲の不公平感を煽り、当事者を教室や職場の人間関係から完全に孤立させてしまいます。
健全な組織運営に必要なのは、他者の困難を認めつつ自分の課題に集中する「心理的バウンダリー(境界線)」の確立です。配慮を受ける側も代替手段で責任を果たし、周囲も他人の課題に過剰に干渉しない。この成熟した境界線の構築こそが、不毛な「ずるい論争」を断ち切る唯一の道筋です。