赤木圭一郎と美輪明宏の交流の背景には、文豪・三島由紀夫をはじめとする当時の最高峰の文化人ネットワークが存在していました。美輪明宏の熱烈な支持者であった三島由紀夫もまた、赤木圭一郎がスクリーンで見せる野性味と脆さが同居した特異な美学に強い関心を寄せていました。
三島由紀夫は赤木圭一郎の存在感を高く評価し、自らの美学の体現者としての可能性すら見出していました。美輪明宏をハブとして、三島や赤木といった時代の寵児たちが交差した銀巴里のサロン空間は、単なる芸能人の集まりを超えた、昭和モダニズムの極致とも言える熱気を帯びていたのです。
もし赤木圭一郎が21歳で命を落とさなければ、美輪明宏や三島由紀夫との本格的な芸術的コラボレーションが実現していた可能性も極めて高く、この早すぎる喪失は日本の文化界全体にとっても計り知れない打撃となりました。