酬恩庵の起源は、鎌倉時代に臨済宗の高僧・大応国師(南浦紹明)が中国の虚堂智愚(きどうちぐ)禅師に学んだ禅を広めるため、京都・薪の地に建てた「妙勝寺」に遡ります。その後、元弘の変(1331〜1333年)の兵火によって寺は荒廃していましたが、大応国師を敬慕していた一休宗純が康正2年(1456年)、63歳の折に草庵を結んで復興。「師恩に報いる」という意味を込め、寺号を「酬恩庵」と改めました。
室町幕府の権力や形骸化した仏教界の腐敗を痛烈に批判し、狂雲子と自称しながら庶民や弟子たちと生きた一休は、文明13年(1481年)に88歳でこの世を去るまで、この庵を活動の拠点としました。応仁の乱の戦火を逃れて逃れてきた文人や商人たちとも交流を重ね、茶の湯の祖とされる村田珠光らもここを訪れたと伝えられています。
境内奥に位置する「宗純王廟(そうじゅんおうびょう)」は、一休宗純の墓所です。一休禅師は第100代・後小松天皇の落胤(私生児)と伝えられており、現在も宮内庁が管轄する陵墓として厳格に管理されています。門扉には皇室ゆかりの「菊花紋章」が刻まれており、一般参拝者は門の内側に入ることはできませんが、杉木立に囲まれた厳粛な門前からは、今なお漂う異色の格式と孤高の気配を肌で感じ取ることができます。