大谷吉継はなぜ散ったのか?関ヶ原の義と病魔、三成に殉じた生涯の真相

大谷吉継はなぜ散ったのか?関ヶ原の義と病魔、三成に殉じた生涯の真相

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慶長5年夏、大谷吉継は会津の上杉景勝討伐に向かう徳川家康軍に合流すべく、敦賀から手勢を率いて出陣しました。この時点において、吉継は明確に徳川家康を支持する立場を取っていたのです。しかし、その途上、佐和山城に立ち寄ったことで運命の歯車が大きく狂い始めます。

旧友である石田三成から打ち明けられたのは、家康に対する電撃的な挙兵計画でした。吉継は即座に三成を厳しく諌め、「勝機は皆無であり、無謀極まりない」「お主は人望に乏しく、天下を動かす器量ではない」と痛烈な言葉を投げかけ、三度にわたって翻意を促したと記録されています。軍事的な冷徹さを持っていた吉継には、諸大名のパワーバランスから見て西軍の勝算が極めて薄いことが最初から見え透いていたのです。

それでも三成の決意が揺るがないことを悟った吉継は、勝ち目のない戦いと知りながら三成と共に討ち死にする道を選びました。この決断を裏付ける背景として語り継がれているのが、あまりにも有名な「茶会の逸話」です。豊臣秀吉が催した茶会で、病によって顔から膿が滴り落ちた茶碗を他の大名たちが忌避する中、三成だけが何食わぬ顔でその茶を飲み干し、「吉継殿の点てた茶はまことに美味い」と声をかけたという伝説です。この逸話自体の史実性には諸説あるものの、官僚肌で孤立しがちだった三成と、実務肌で人望の厚かった吉継の間に、損得を超えた唯一無二の深い信頼関係が存在したのは間違いありません。

石川 優花
著者

石川 優花

心身ともに健康で持続可能なライフスタイルをテーマに、最新のウェルネストレンドを発信中。