徳川政権が確立されると、柳生新陰流は二つの大きな潮流へと分かれました。徳川将軍家の側近として幕閣の中枢に食い込んだ江戸柳生と、尾張徳川家に仕えて剣の純粋性を突き詰めた尾張柳生です。
江戸柳生を率いた柳生宗矩は、徳川家康・秀忠・家光の三代に仕え、剣術指南役にとどまらず大目付(治安維持・大名監察)にまで登り詰め、一介の剣客から大名(1万2,500石)へと異例の出世を果たしました。宗矩にとっての兵法は「天下を治めるための政治学」であり、情報収集や人心掌握を含んだマクロな戦略論へと拡張されました。
一方、石舟斎の嫡孫である柳生利厳(兵庫助)が継承した尾張柳生は、技の純化と古武道の伝承に徹しました。利厳は『新陰流兵法初心集』を著し、身体操作の極限を追究したことで「技の尾張、位の江戸」と並び称されることになります。