土岐頼芸と斎藤道三の愛憎劇を語る上で欠かせないのが、絶世の美女と謳われた側室・深芳野(みよしの)の存在です。軍記物『美濃国諸旧記』などが伝える有名なエピソードでは、頼芸が道三に深芳野を下賜(譲渡)した際、彼女はすでに頼芸の子を身ごもっており、その後に生まれた男子こそが後の美濃国主・斎藤義龍であったとされています。
この「義龍実父説」は、後に義龍が父・道三を討ち果たす「長良川の戦い(1556年)」の最大の心理的動機として、講談や歴史小説でドラマチックに描かれてきました。「自分は道三の子ではなく、追放された正統な守護・土岐頼芸の落胤である」と知った義龍が、実父の仇を討つために挙兵したという筋書きです。
しかし、近年の歴史研究者による史料批判では、この実父説は後世に創作されたプロパガンダ(俗説)である可能性が極めて高いと結論付けられています。
当時の一次史料を精査すると、義龍が道三に対して反旗を翻したのは、道三が義龍を廃嫡し、弟たち(孫四郎・喜平次)に家督を譲ろうとしたことに対する家督相続を巡る現実的な権力闘争でした。義龍側は美濃国内の旧土岐家臣団や国人衆を味方に引き入れるため、自身が「土岐氏の血脈と権威を継ぐ正統な後継者」であることを政治的にアピールする必要があったのです。深芳野の懐妊伝承は、下克上によって主君を討つという大罪を正当化するための見事な政治的レトリックであったと言えます。