1960年代初頭、日本に「ドレミの歌」を持ち込み、自ら日本語詞を手掛けたのがジャズ・ポップス歌手として第一線で活躍していたペギー葉山氏(1933–2017)である。彼女がブロードウェイで上演されていたミュージカル『サウンド・オブ・ミュージック』を現地で観劇した際、「この素晴らしいメロディを日本の未来を担う子どもたちに届けたい」と強く胸を打たれたことがすべての発端だった。
その後、1962年6月〜7月にNHK『みんなのうた』での放送が決定し、ペギー氏自身が訳詞を担当することになった。しかし、当初用意された英語の直訳に近い歌詞は、「鹿」「光線」といった観念的な単語が多く、日本の子どもたちの生活実感とはあまりにもかけ離れていた。「このままでは子どもたちが楽しそうに歌う姿が想像できない」と強い危機感を抱いた彼女は、締め切り直前まで原稿用紙を前に頭を抱え続けた。
突破口が開かれたのは、東京・有楽町の喫茶店での出来事だった。生前の特番インタビューや自著の手記において、ペギー氏は当時の切迫した心境を次のように述懐している。
「明日が録音という追い詰められた状況の中、喫茶店で机に突っ伏しながら『ド、ド、ド……』と考えあぐねていました。そのとき、目の前に運ばれてきたのが、たまたま注文していた穴のあいたドーナツだったのです。『これだ! ドはドーナツのドだ!』と閃いた瞬間、視界が一気に開けました」
ドーナツという子どもが大好きな食べ物から始まった着想は、瞬く間に「レはレモンのレ」「ミはミカン(当初はミルクの案もあった)のミ」へと連鎖していった。さらに「ファ」の言葉が見つからず苦悩した際には、自らを奮い立たせる意味を込めて「ファイト」という前向きな言葉を当てはめた。この直感的なひらめきと、子どもたちへの深い愛情こそが、半世紀以上愛される国民的フレーズを生み出した決定打となった。