大和朝廷と蝦夷の激突において、日本史上に燦然と輝く英雄が阿弖流為(アテルイ)です。8世紀後半から約30年以上にわたって続いた「三十八年戦争」の中で、アテルイは現在の岩手県奥州市付近を拠点に、圧倒的な戦力差を誇る朝廷軍に立ち向かいました。
延暦8年(789年)の「巣伏(すぶせ)の戦い」では、朝廷の征東大使・紀古佐美(きのこさみ)率いる数千の軍勢を北上川の地形を活かしたゲリラ戦法で誘い込み、歴史的な大勝利を収めます。軽装で馬を自在に操り、弓を射る蝦夷の騎馬戦術は、重装備で統率の取れない朝廷軍を完膚なきまでに打ち破りました。
事態を重く見た桓武天皇は、希代の名将として知られる坂上田村麻呂を征夷大将軍に任命します。田村麻呂は単なる武力制圧だけでなく、現地勢力の懐柔や強固な胆沢城の築城など戦略的な包囲網を構築。延暦21年(802年)、アテルイと副将モレはこれ以上の同胞の流血を避けるため、田村麻呂の軍門に降りました。
田村麻呂はアテルイの武勇と人格を深く認め、朝廷に対して「彼らを郷里へ帰し、現地の統治を任せるべきだ」と助命を嘆願しました。しかし、京都の貴族たちは「野蛮人の本性を信じるな」と頑なに拒否し、アテルイとモレは河内国(現在の大阪府枚方市)にて露と消えました。敵味方を超えて結ばれた2人の武人の絆は、現代でも語り継がれる悲劇的な幕切れを迎えたのです。