太宰治の自殺が敢行されるまで、4回もの自殺未遂を繰り返していました。
妻や複数の愛人がいて、執筆活動も順調だった太宰治。
一見順調に見えた彼の作家人生ですが、なぜ太宰治は何回も自殺未遂を図ったのでしょうか。
1回目の自殺未遂
1929年、太宰治は自分が通っていた旧制弘前高等学校で起きた左翼運動をモデルに「学生群」という作品を執筆し、出版社の懸賞小説に応募するも、落選してしまいます。
この落選があまりにもショックで受け止めきれない太宰治は、カルチモンという薬を多量に接種して自殺を図りました。
けれどこの自殺は失敗に終わります。
また、太宰治はこの自殺の理由について著書「苦悩の年鑑」の中で「私は賎民ではなかった。ギロチンにかかるほうの役であった」と綴っています。
つまり自分の身分と思想の違いが自殺を図る理由であった、と言うことです。
2回目の自殺未遂
1930年、大学に通うために上京していた太宰治を頼りに、恋人で芸者の小山初代も結婚を前提に上京します。
しかし、家族は芸者との結婚に猛反対。
それでも初代との結婚を諦めない太宰治に対し兄は、彼を家から除籍することを条件に結婚を認めました。
学費だけは払ってもらっていたものの、除籍され期待していた財産分与の権利も剥奪されたことにひどく落胆し、愛人であった田部シメ子と前回と同様カルモチンを大量に飲んで自殺を敢行します。
しかしまた太宰治は生き残り、田部シメ子だけが死んでしまうのです。
こちらは、太宰治と心中を図った田部シメ子(享年17歳)の写真です。
銀座のカフェで働いていて、太宰治と出会いました。
3回目の自殺未遂
1935年大学5年になっていた太宰治は、大学を卒業することができずにいました。
このままでは学費の仕送りも打ち切られてしまう不安に駆られ、就職活動を始めます。
新聞社の就職試験を受験するも、結果は不合格。
3月18日、将来の不安に苛まれ首吊り自殺を行いますが、この自殺も未遂になりました。
この後、腹膜炎を患ってしまいます。
4回目の自殺未遂
1935年に腹膜炎の手術を受けてから、パビナールという鎮痛剤の依存症になっていた太宰治。
どうしても欲しい芥川賞のため、師事する佐藤春夫に恥を忍んで受賞を乞う手紙を送ったりもしましたが、2年連続で落選。
3回目の選考では候補にすらならなかったのです。
芥川賞落選のショックからますます薬物依存を強める太宰治に、親類の学生が太宰治の妻、初代との不貞行為を告白します。
その告白に絶望した太宰治は1937年3月下旬、初代とカルモチンの多量摂取による自殺を決行。
しかし、この自殺も未遂に終わり初代とは離別しました。