襲撃された政府首脳たちの命運は、紙一重の偶然と凄惨な暴力によって明暗が分かれました。その中でも象徴的な被害者が、大蔵大臣の高橋是清と内閣総理大臣の岡田啓介です。
卓越した経済手腕で昭和恐慌からの脱出を成し遂げた高橋是清(当時81歳)は、赤坂の私邸で就寝中に襲撃されました。高橋はインフレの懸念から軍事予算の膨張を断固として抑え込もうとしており、陸軍の軍縮要求に立ちはだかる「元凶」として青年将校たちから最も敵視されていた人物です。中橋基明中尉率いる一隊が寝室に乱入した際、高橋は怯むことなく「バカ者!」と一喝しましたが、凶弾を浴びせられ、軍刀で刺殺されました。日本経済の羅針盤を失ったことは、その後の国家財政破綻への決定打となりました。
一方、首相官邸で標的となった岡田啓介首相の脱出劇は、歴史の奇跡と語り継がれています。栗原安秀中尉率いる部隊が突入した際、岡田の義弟であり秘書官を務めていた松尾伝蔵陸軍予備役大佐が、首相を守るために庭へ飛び出しました。反乱部隊は風貌が酷似していた松尾を岡田首相本人と誤認し、射殺。「首相暗殺に成功した」と誤認した部隊は遺体に弔旗を掲げて安置しました。
本物の岡田首相は女中部屋の押し入れに身を潜めて難を逃れ、翌27日、反乱軍が官邸を占拠し続ける中で、弔問客に紛れ込んで変装し、官邸からの奇跡的な脱出に成功しました。この首相生存の事実は、反乱軍のクーデターを「既成事実化」させないための重大な政治的武器となりました。