富士山噴火の実態を掴むうえで、最も信頼に足る歴史の教科書が、江戸時代の1707年に発生した「宝永噴火」です。この噴火は直前にマグニチュード8.6クラスと推定される宝永地震(南海トラフ巨大地震)が発生し、そのわずか49日後に山腹の南東斜面から猛烈な爆発を起こしました。
当時の幕府儒学者・新井白石は、その回顧録『折たく柴の記』の中で、江戸の町を襲った惨状を次のように生々しく書き残しています。
「午前に雷のような轟音が轟き、やがて空一面が黒雲に覆われた。白昼であるにもかかわらず夜のように暗くなり、燭(ろうそく)を灯さねば文字を読むこともできない。降り注ぐ灰は雪の如く積もり、天地が崩壊するかと思われた」
江戸の市街地でさえ約5センチ、火口に近い現在の御殿場や小山町周辺では数メートルもの噴石と火山灰が堆積しました。宝永噴火は溶岩流こそ流出しなかったものの、噴火は足かけ16日間にわたって断続的に継続。降り積もった膨大な火山灰は、その後の降雨によって泥流(火山泥流)化し、酒匂川の堤防を決壊させました。その結果、広大な田畑が埋没し、周辺地域は飢饉と疫病によって数十年にわたる壊滅的な経済衰退を強いられたのです。
歴史が証明しているのは、噴火そのものの炎や衝撃波以上に、「長期間にわたって生活基盤を削り続ける火山灰の持続的暴力」こそが、人間社会を破滅に追い込むという厳然たる事実です。