作中で原口元子が東林銀行(ドラマでは東林銀行や東林銀行世田谷北支店など)から1億数千万円を横領する発端となったのが、銀行が抱える架空名義預金の手口の真相です。なぜ元子は、巨額の横領に手を染めながらも即座に警察へ突き出されなかったのでしょうか。
その背景には、当時の日本の金融機関に蔓延していた「脱税幇助のシステム」が存在します。富裕層や政治家、開業医たちは、所得税や相続税の追及を逃れるため、実在しない人物や借名を用いた架空口座に裏金を隠蔽していました。銀行側も預金残高を増やす営業ノルマのためにこれを黙認し、行員が自ら架空名義を作成して預金を管理していた実態がありました。元子はその背任の記録を克明に1冊の黒革の手帖に書き写し、「私を訴えれば、銀行が脱税を指南していた事実を国税庁と警察に公表する」と副支店長らを脅迫したため、銀行側は表沙汰にできず、横領金を元子の退職金や使途不明金として内々に処理せざるを得なかったのです。
このプロットには、原口元子の実話モデルとされる昭和の金融犯罪の影が見え隠れします。松本清張が本作を週刊誌に連載開始したのは1978年ですが、のちに世間を震撼させた1981年の「三和銀行オンライン巨額詐欺事件」(女子行員・伊藤素子が愛人の男のために架空入金を行い約1億8000万円を詐取した事件)をはじめ、高度経済成長期からバブル前夜にかけて頻発した「金融機関の女子行員による巨額横領」の構造的欠陥が綿密に取材されています。清張は、社会の最底辺で真面目に働きながら搾取される女性事務員が、組織の最も腐敗した急所を突いて反旗を翻すという、当時の金融界のタブーを鋭利に切り取って物語を構築したのです。
また、元子が開店させた銀座クラブ「カルネ」(フランス語で手帖の意)についても、昭和の銀座に実在した複数の有名クラブや、男社会を手玉に取った名物ママたちの実話エピソードが下敷きになっています。枕営業を拒否し、知性と情報、そして心理戦のみで政治家や大病院長から大金を吸い上げる元子のスタイルは、夜の街における異端児としてのリアリティを放ち続けています。