豊臣秀吉の生涯最大の弱点は「実子の少なさ」にありました。数多くの妻を持ちながら、成人まで生き残った実子は茶々が産んだ豊臣秀頼(1593年〜1615年)ただ一人でした(幼少期に病死した長男・鶴松を除く)。
秀吉が57歳の高齢になって生まれた秀頼は、豊臣家のすべてを背負う存在となります。秀吉は秀頼の誕生に狂喜乱舞し、それまで後継者として定めていた甥の関白・豊臣秀次を自害に追い込むという暴挙に出ました(秀次事件)。秀次の妻子ら三十数名を公開処刑するという凄惨な粛清劇は、豊臣譜代の結束を決定的に破壊し、後の政権崩壊の引き金となります。
茶々(淀殿)は、名門浅井家と織田家の血を引く誇り高き女性でした。秀吉の死後、幼少の秀頼の後見人として大坂城の全権を掌握した茶々は、秀頼中心の専制政治を進めます。しかし、百戦錬磨の徳川家康との外交戦において、世間知らずの側近たちに囲まれた茶々の強硬姿勢は裏目に出続けました。慶長19年〜20年(1614年〜1615年)の「大坂の陣」において大坂城は落城し、茶々は秀頼と共に炎の中で自害。豊臣宗家はここに滅亡しました。