栗林忠道は1891年(明治24年)、長野県埴科郡西条村(現在の長野市松代町)の旧松代藩士の家系に生まれました。長野中学(現・長野高校)を経て陸軍士官学校(26期)、陸軍大学校(35期)をいずれも上位の優秀な成績で卒業した、文字通りのエリート軍人です。
専攻は騎兵科であり、馬術の腕前は宮内省御馬寮への出入りを許されるほど卓越していました。しかし、彼の軍歴における最大の転換点は、1928年(昭和3年)からのアメリカ駐在武官補佐官、そして1931年(昭和6年)からのカナダ駐在武官としての北米勤務です。
当時、栗林は自ら自動車を運転して広大なアメリカ本土を横断旅行し、デトロイトの自動車工場やピッツバーグの製鉄所など巨大な工業地帯を視察しました。そこで目にした圧倒的な工業生産力と合理的な国民性を肌で感じ取った栗林は、周囲の軍人たちに「アメリカという国を相手に戦争をしては絶対にいけない。日本の国力では到底太刀打ちできない」と語り、終生変わらぬ「知米派」としての冷徹なリアリズムを確立しました。
太平洋戦争開戦後、栗林は第23軍参謀長として香港攻略戦を指揮したのち、留守近衛第2師団長を務めていました。そして戦局が決定的に悪化した1944年(昭和19年)5月27日、東條英機首相兼陸軍大臣から直接、帝都防衛の最前線である小笠原方面最高指揮官(第109師団長)への着任を命じられます。敗戦必至の孤島へ赴く命運に対し、栗林は「生きて再び本土の土を踏むことはない」と覚悟を決め、単身硫黄島へと渡航しました。