本作を読む読者の間で頻繁に語られるのが、「立花喜久雄のモデルとなった実在の人物は誰なのか」という議論です。ネット上では特定の歌舞伎俳優の名前が取り沙汰されることが多々ありますが、客観的な事実関係を検証すると、より重層的な創作の背景が浮かび上がります。
極道の家から歌舞伎界に入り、女形として当代一の頂点に登りつめるという喜久雄の軌跡は、血筋を持たない一般家庭から稀代の女形として人間国宝に上り詰めた五代目・坂東玉三郎の経歴を強く想起させます。吉田修一自身も歌舞伎の現場へ長期間にわたる綿密な取材を重ねており、玉三郎の舞台姿や立ち居振る舞いから多大なインスピレーションを受けていることは明白です。
しかし、立花喜久雄というキャラクターは単一の実在人物のトレースではありません。劇中に登場する過酷な名跡争いや任侠との交わり、上方歌舞伎の衰退と復興の歴史には、六代目・中村歌右衛門や三代目・中村鴈治郎をはじめとする、昭和から平成を駆け抜けた数々の名優たちのエピソードが高度に織り交ぜられています。
「坂東玉三郎の自伝的物語である」というネット上の単純化された解釈は明らかな誤解であり、実際には歌舞伎という400年の伝統が孕む「血の呪縛」と「個人の才能」の壮絶な相克を描き出すために創り出された、究極のフィクションの結晶なのです。