なぜ女は桜でも菊でもなく、「白百合」として転生しなければならなかったのでしょうか。ここには漱石の卓越した東西文化のハイブリッド思考が反映されています。
西洋絵画の文脈において、白百合は受胎告知の場面で聖母マリアに捧げられる純潔の象徴です。イギリス留学で精神を病むほど西洋文明を浴びた漱石にとって、白百合は清らかであると同時に、近寄りがたい冷徹な美を意味していました。さらに重要なのは、ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティをはじめとするラファエル前派の画家たちが好んで描いた「美しき死せる女性と百合」のヴィジュアルイメージです。
作中における白百合の描写には、異常なほどの生々しさと官能が宿っています。
「骨に徹えるほど芳ばしい匂い」を放ち、「露がぽたりと落ちて、花が自らの重みで揺れる」という描写は、肉体を失った女が、花という形態を借りて男の五感(嗅覚・触覚・視覚)を直接侵略している様相を表しています。単なる魂の救済ではなく、香りと湿り気を通じた死者からの口づけに他なりません。
結末で頭上に輝く「暁の星(金星)」にも精密な意図があります。金星は西洋において愛と美の女神「ヴィーナス」であると同時に、光をもたらす堕天使「ルシファー」を指します。男の頭上に落ちる一滴の冷たい露と、冷酷に瞬く明けの明星。男は救われたのではなく、現世の朝を迎えることなく、女が支配する永遠の美の牢獄へ封じ込められたのです。