『カサブランカ』のドラマ性を支えているのが、映画主題歌として名高い『時の過ぎゆくままに(As Time Goes By)』です。この曲はハーマン・フップフェルドが1931年のブロードウェイミュージカルのために作詞・作曲した楽曲であり、本作のために書き下ろされたオリジナル曲ではありませんでした。
劇中では、ナチス占領下のフランスから逃れ、モロッコの街カサブランカでカフェ「リック・カフェ・アメリカン」を営むリックと、かつてパリで恋に落ち、突如姿を消したイルザが運命の再会を果たすトリガーとして機能します。サムがピアノを弾き始めると同時にリックが怒りを露わにして部屋から飛び出し、そこに立つイルザと視線が交錯するシーンは、映画史に刻まれる屈指のサスペンスとロマンスの融合です。
このシーンには、今日まで語り継がれる驚くべき撮影裏話が残されています。
劇中で味わい深い歌声と流麗なピアノ演奏を披露しているサム役のドーリー・ウィルソンは、実は優れたドラマー兼歌手であり、ピアノはまったく弾けませんでした。画面に映る彼の指の動きは完全な当て振り(マイム)であり、撮影スタジオのカーテンの裏側でプロのピアニストであるエリオット・カーペンターがリアルタイムで演奏を合わせていたのです。
ウィルソン本人の豊かな表情と巧みなマイム、そしてカーペンターの哀愁を帯びたタッチが見事にシンクロしたからこそ、観客はあのピアノの音色に深いリアリティを感じ、劇中の切ない空気に引き込まれました。