浅井万福丸は、北近江(現在の滋賀県長浜市周辺)を支配した名将・浅井長政の長男(嫡男)として誕生しました。通称として「万福丸」の名が広く知られていますが、史料によっては「輝政」といった実名が伝わることもあります。生年については諸説あるものの、永禄7年(1564年)前後の生まれと推測されており、天正元年の小谷城落城時にはわずか7〜10歳前後という幼少期でした。
当時、浅井家は北近江を巡って織田信長と同盟を結び、信長の妹である絶世の美女・お市の方を長政の正室に迎えることで盤石の体制を築いていました。万福丸は将来の浅井家当主として、家臣団からも大きな期待を寄せられる存在だったのです。
しかし、信長と越前・朝倉義景との対立が決定的となったことで、浅井家は織田家との同盟を破棄し、盟友である朝倉家を選択。元亀元年(1570年)の「姉川の戦い」を経て、両者の抗争は泥沼化していきます。そして天正元年(1573年)8月、信長の大軍に包囲された小谷城はついに孤立無援となり、万福丸の平穏な日常は音を立てて崩れ去ることになりました。