唐牛健太郎の経歴を語る上で欠かせないのが、1960年安保闘争における圧倒的なリーダーシップです。1937年、北海道函館市に生まれた唐牛は、北海道大学文学部に入学後、学生運動に身を投じます。共産党の官僚的な指導に反発し、新左翼の源流となった「ブント(共産主義者同盟)」の結成に参画。弱冠22歳で全学連委員長に就任しました。
当時の学生運動の指導者といえば、硬直した教条主義的な言葉を振りかざす人物が一般的でした。しかし唐牛は違いました。べらんめえ調の軽妙な語り口と圧倒的な度胸、そして映画俳優のような風貌で、学生のみならず一般市民の間でも絶大な人気を獲得します。国会突入闘争を指揮し、時の岸信介内閣を退陣に追い込む原動力となりました。
しかし、運動の過熱に伴う東大生・樺美智子さんの死亡事故や、自らの逮捕・投獄を経て、唐牛は政治の表舞台から急速にフェードアウトしていきます。「組織の権力闘争」に嫌気が差した彼は、安保闘争の終結とともに運動の現場を完全に去る決断を下しました。