漢字の成り立ちをめぐる議論は、時代によってダイナミックな変遷を遂げてきた。後漢時代、許慎(『説文解字』編纂者)が著した最古の部首別辞書『説文解字』では、犬は「叩気(ほえて威嚇する)の獣」として理知的に定義された。長い間、この許慎の体系こそが漢字の正統な解釈と信じられてきた。
その常識に強烈な一撃を浴びせたのが、20世紀を代表する漢字学者・白川静(漢字学者)である。白川は、発掘された甲骨文字や金文を徹底的に再検討し、語源学(エティモロジー)の地平を刷新した。白川理論によれば、古代において犬は単なる番犬ではなく、神聖な境界を守るための「呪術的供物」であった。
都市の門の下に埋められて邪霊を防ぐ「伏」、器物の血塗りの儀式を示す「器」、神への誓いを立てる「類」。白川が提示した血生臭くも厳粛な儀礼空間のヴィジョンは、従来の平穏な語源解釈を根底から揺さぶり、漢字研究に決定的なパラダイムシフトをもたらした。