攘夷派とは何だったのか?外国人排除の真相と倒幕へ転じた幕末激動史

攘夷派とは何だったのか?外国人排除の真相と倒幕へ転じた幕末激動史

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下関戦争と薩英戦争という手痛い軍事教育を受けた攘夷派は、思想のパラダイムシフトを起こしました。従来の「小攘夷(目先の外国人を武力で追い払うこと)」を明確に捨て去り、「大攘夷(国を開いて富国強兵を進め、列強と対等に渡り合える独立国を築くこと)」へと目標を再設定したのです。

ここで最大の障害として立ちはだかったのが徳川幕府の存在でした。幕府は260年以上にわたる幕藩体制の温存を最優先としており、全国の藩を統合して強力な近代国家を造るための抜本的改革を行う決断力を欠いていました。さらに、幕府自らが長州藩を反逆者として討伐しようとする「長州征討」を起こすなど、内戦に資源を浪費し続けました。薩摩藩の西郷隆盛や大久保利通、長州藩の木戸孝允らは、「外圧に対処できない古い統治機構そのものを解体しなければ、日本は欧米の草刈り場になる」と確信。ここに「尊王攘夷」は完全に「武力倒幕」へと一本化されました。

慶応3年(1867年)、第15代将軍・徳川慶喜による大政奉還を経て、明治新政府が樹立されると、維新首脳陣は劇的な宣言を出します。慶応4年(1868年)に発布された「五箇条の御誓文」には、「旧来の陋習を破り天地の公道に基くべし」「知識を広軌に求め大いに皇基を振起すべし」と明記されました。かつて攘夷の旗頭だった長州・薩摩の志士たちが主導する新政府が、公式に「開国和親」を国是として掲げたのです。岩倉使節団による米欧回覧や、廃藩置県、徴兵令、殖産興業といった一連の近代化政策は、かつて攘夷派が目指した「欧米の侵略から国家を防衛する」という究極の目的を達成するための手段に他なりませんでした。

【プロの結論】集団防衛本能とパラダイムシフトから見出すべき教訓

歴史社会学および組織心理学の視点から攘夷派の軌跡を総括すると、彼らの歩みは「認知的不協和の解消」と「外圧に対する適応プロセス」の極致であったと言えます。

当初、志士たちが拠って立ったのは「自国の伝統的秩序は絶対であり、異質な外部勢力は排除すべきだ」という強烈な防衛本能でした。しかし、列強の圧倒的軍事技術という「自らの信念を粉砕する反証」に直面したとき、愚鈍な組織であれば現実から目を背け、全滅するまで無謀な特攻を繰り返したはずです。事実、アジア諸国の多くは伝統的エリート層が現実を拒絶した結果、植民地化の憂き目に遭いました。これに対し、幕末の尊攘派志士たちが驚異的だったのは、致命的な軍事的敗北を喫した直後に自らの過ちを認め、敵の技術・制度を貪欲に吸収するプラグマティズム(実用主義)へと舵を切った柔軟性にあります。

歴史を学ぶ読者にとって、ここから得られる判断基準は明快です。外部からの急激な環境変化や既得権益の崩壊に直面した際、「感情的な拒絶や過去の成功体験への固執(小攘夷)」に逃げ込む姿勢は、組織や個人を破滅へと導きます。真に危機を突破できるのは、自らの無力さと現実のギャップを直視し、「自己変革を受け入れ、脅威を自己成長の糧へと反転させる柔軟な現実主義(大攘夷)」を選択できる人間です。幕末の攘夷派が辿った挫折と再生のドラマは、激変の時代を生き抜くための普遍的な教訓を提示しています。

石川 優花
著者

石川 優花

心身ともに健康で持続可能なライフスタイルをテーマに、最新のウェルネストレンドを発信中。