起雲閣の物語は、1919年(大正8年)に「海運王」として名を馳せた実業家・内田信也が、病弱な実母のために築いた別邸に端を発します。敷地内に建てられた和館「麒麟」「大鳳」は、伝統的な数寄屋造りを基調としながらも、随所に贅を凝らした設計が施されました。その後、1925年(大正14年)に「鉄道王」と呼ばれた東武鉄道の創業者・初代根津嘉一郎が私邸として引き継ぎ、洋館「玉姫」「金碧」「玉渓」や約1,000坪に及ぶ池泉回遊式庭園を造営しました。
戦後の1947年(昭和22年)、起雲閣は旅館へと姿を変えます。ここから、日本文学史に刻まれる「文豪たちのサロン」としての黄金期が幕を開けました。なかでも太宰治は、1948年3月に愛人の山崎富栄を伴って別館の「山桜の間」に長期滞在し、代表作『人間失格』の「第二の手記」を執筆したことで知られています。自らの破滅と再生の葛藤を抱えた太宰にとって、熱海の温暖な気候と、外界から遮断された起雲閣の重厚な空間は、創作に没頭するための絶対的な結界として機能していました。
太宰のみならず、志賀直哉、谷崎潤一郎、山本有三、三島由紀夫ら錚々たる作家たちがこの宿の逗留者リストに名を連ねています。彼らが残した手記や書簡の記述からも、起雲閣の持つ独特の静寂と、和洋が入り混じるエキゾチックな空間が、執筆活動における心理的な避難所(サンクチュアリ)となっていた事実が裏付けられています。