神奈川県横須賀市の臨海部に位置する日産追浜グラウンドの歴史と経緯は、日本の高度経済成長と実業団スポーツの黄金期そのものを象徴しています。1950年に創部された日産自動車硬式野球部は、都市対抗野球大会で2度の優勝(1984年、1998年)を誇り、社会人野球日本選手権でも幾多の栄冠を獲得。名将・久保恭久監督のもとで磨かれた堅守強打の野球は、この夏島町の総合グラウンドから発信され続けました。
グラウンドは両翼95メートル、中堅120メートル級の本格的な野球場に加え、陸上トラックやクラブハウスを備えた屈指の福利厚生・スポーツ施設でした。スタンドには従業員や地域住民が詰めかけ、オープン戦や練習風景は横須賀の日常的な風物詩として定着していました。プロ野球界へも幾多のドラフト上位選手を送り込み、アマチュア球界屈指のブランド力を誇っていたのです。
しかし、その歴史は2008年秋のリーマン・ショックに端を発する世界同時不況によって暗転します。翌2009年2月、当時の経営陣(カルロス・ゴーン最高経営責任者体制)は聖域なき固定費削減を断行。日産硬式野球部、陸上部、卓球部の休部が電撃発表されました。日産追浜球場の閉鎖理由は、グローバル競争の激化に伴う巨額の営業損失危機を前に、年間数億円規模を要する企業スポーツ運営費の拠出を停止せざるを得なかった経営判断にあります。「会社の存続が最優先であり、社員の雇用を守るための苦渋の選択」という当時の会見コメントが物語る通り、名門の象徴であったグラウンドもその役目を凍結されることとなりました。