ネット上のまとめ記事やSNSなどで長年まことしやかに語られている俗説に、「日本サッカーの父と呼ばれる中村覚之助氏が那智勝浦(和歌山県)出身だったため、郷土の八咫烏をエンブレムに推薦した」という言説があります。
この説の真相はどうなのでしょうか。調査報道の観点から事実関係を時系列で整理すると、史実とのズレが見えてきます。
中村覚之助氏は明治時代、東京高等師範学校において日本初となる蹴球部を創設し、1904年に日本初のサッカー指導書を著した偉大な先駆者です。確かに中村氏は八咫烏ゆかりの熊野地方出身であり、このロマンあるストーリーは広く信じられてきました。
しかし、JFAが八咫烏のシンボルマークを制定したのは1931年(昭和6年)です。中村覚之助氏はそれに先立つ1906年(明治39年)に28歳の若さで早世しています。したがって、中村氏本人が直接協会に働きかけて八咫烏を採用させたという記録は公的には存在しません。
実際の記録では、前述の通り東京高等師範学校の後輩であり漢文学者の内野台嶺氏らが、日名子実三氏とともに考案したというのが歴史的事実です。ただし、「内野氏らがシンボルを構想するにあたり、志半ばで世を去った偉大な創始者・中村覚之助氏の遺徳を偲び、彼の故郷である熊野の神鳥を意識したのではないか」という文化的推論は今なお多くの研究者や関係者の間で語り継がれています。単なる思いつきではなく、日本サッカー創成の絆が織り込まれているからこそ、この説は今も人々の心を惹きつけてやまないのです。