三島事件における介錯のプロセスは、映画や小説のような整然とした儀礼とは程遠く、阿鼻叫喚の惨状でした。当時の公判記録や楯の会残余メンバーの宣誓供述書によると、三島が自ら白鞘の短刀で下腹部を真一文字に裂いた瞬間、介錯人として背後に控えていた学生長・森田必勝が三島の愛刀「関孫六」を両手で振り下ろしました。
しかし、剣道の経験こそあれ抜刀道の修練が浅く、極度の重圧と興奮状態にあった森田の一刀は、三島の頸椎を捉えることができず、肩口と背中を激しく切り裂きました。三島は激痛の中、なおも前傾姿勢を崩さず耐えましたが、森田が放った二刀目、三刀目も頸部を外れ、絨毯を朱に染めるばかりでした。
これを見かねた小賀正義らの制止を受け、抜刀道(居合)の有段者であった古賀浩靖が即座に森田から刀を奪い取りました。古賀は落ち着き払い、孫六を一閃させて三島の頸部を綺麗に切り落としました。皮一枚を残すという古来の介錯の作法ではなく、完全に首を落とす渾身の一撃でした。その後、森田必勝もまた自決を遂げ、古賀が一刀のもとに森田の介錯を成し遂げています。
この凄惨な介錯劇において、関孫六の刃は骨と衝突して大きくこぼれ、曲がりが生じていたと記録されています。「いかに名刀と謳われた刀であっても、人間の骨を断ち切る作業は過酷を極める」という日本刀の現実を物語る生々しい証言です。