手術の成功は、闘病の長いトンネルの入り口に過ぎませんでした。目に見えない微小ながん細胞を叩き、再発を防ぐために待っていたのが、過酷を極める術後補助化学療法(抗がん剤治療)です。
抗がん剤の投与が始まると、激しい倦怠感、吐き気、食欲不振に加え、特有の「末梢神経障害」が桑野の体を容赦なく襲いました。手足の指先が氷のように冷え、何かに触れるだけで電気が走るような激痛が走る症状です。常温の水でさえ針で刺されたように痛むため、素手で物に触ることすらままならない日々が続きました。
この副作用は、トランペッターである桑野にとって「音楽家生命の終告」にも等しい脅威でした。唇の繊細な感覚でピッチ(音程)をコントロールし、指先の素早い動きでピストンバルブを押すトランペット演奏において、感覚麻痺は致命的だからです。楽器を持つことすらできない虚無感と闘いながらも、桑野は日々のリハビリを続け、指先の感覚を取り戻すための地道な鍛錬を一切怠りませんでした。