暗殺劇が起きた根本的な原因は、当時「バルカン半島の火薬庫」と称されたこの地域の複雑怪奇な民族問題と領有権争いにあります。
1908年、オーストリア・ハンガリー帝国はオスマン帝国の弱体化に乗じてボスニア・ヘルツェゴビナを強引に併合しました。これに激怒したのが、隣国であり「大セルビア主義(南スラヴ人の統一国家建設)」を掲げていたセルビア王国です。セルビア側はボスニアに住む同胞を解放しようと目論んでおり、オーストリアに対する激しい敵対心を燃やしていました。
さらにオーストリア皇太子夫妻がサラエボを公式訪問した1914年6月28日という日付そのものが、セルビア人にとって決定的な挑発と受け取られました。この日は1389年にセルビアがオスマン帝国に敗れた悲劇の日であり、セルビア民族の誇りと抵抗を象徴する聖なる記念日(ヴィドヴダン)だったのです。自尊心を傷つけられたセルビアの急進派青年たちにとって、敵国の皇太子が祝祭日に軍事演習を兼ねて乗り込んでくる行為は、到底容認できない冒涜と映りました。