太宰治の誕生日と遺体発見日の謎|6月19日「桜桃忌」の真実と生涯を詳しくリサーチ! 読者が気になる トピックの裏側を分かりやすく展開します。
本名・津島修治として生を受け、無頼派の旗手「太宰治」として戦中・戦後を駆け抜けた生涯は、自己矛盾と承認欲求、そして創作への狂気的な執念に彩られていました。五所川原屈指の資産家の家に生まれながら、終生「階級的罪悪感」に苛まれ続けた彼の歩みを、客観的記録とともに整理します。
時期・年齢詳細・事実データ当時の社会情勢・文壇状況編集部の分析・評価1909年(0歳)
生誕青森県北津軽郡金木村の名家・津島源右衛門の六男として誕生。本名は津島修治。明治末期、大地主階級が地方政治と経済を牛耳る中央集権期。巨大屋敷(現在の斜陽館)で育ち、母の病弱ゆえ乳母や叔母に育てられた原体験が「見捨てられ不安」の根源となる。1930年〜1935年
(21〜26歳)
苦悩と挫折東京帝国大学仏文科入学、左翼運動への傾倒、銀座カフェ女給との投海自殺未遂(相手のみ死亡)、パビナール中毒。第1回芥川賞落選。治安維持法下の共産主義弾圧と軍国主義の台頭。文芸復興期。罪悪感と薬物依存が泥沼化。芥川賞選考委員の佐藤春夫や川端康成への激しい書簡に見られる強烈な承認欲求の表出期。1939年〜1945年
(30〜36歳)
再生と旺盛な執筆石原美知子と見合い結婚。生活の安定を得て『富嶽百景』『走れメロス』『津軽』『お伽草紙』など名作を量産。太平洋戦争下における言論統制・用紙制限。多くの作家が筆を折るか戦争翼賛に走る。極限状態の戦時下で最も精神的安定と健康を維持し、ユーモアと人間信頼に満ちた独自のヒューマニズムを開花させた黄金期。1947年〜1948年
(38〜39歳)
無頼派の頂点と死太田静子との間に女児(太田治子)誕生。『斜陽』で社会現象。『人間失格』脱稿直後、山崎富栄と玉川上水へ入水。敗戦直後の価値観崩壊、カシスやヒロポン蔓延、無頼派ブーム。結核の急速な悪化、莫大な追徴課税、作家としての自己消耗。死に向かって全生命を文字に注ぎ込んだ破滅のクライマックス。
太宰の生家である「斜陽館」は、敷地約680坪、延べ床面積約277坪にも及ぶ豪壮無比な津軽ヒバ造りの名建築です。父・源右衛門は衆議院議員や貴族院議員を務めた大富豪であり、修治少年はその広大すぎる屋敷の中で「自分は百姓や小作人の生き血を吸って贅沢に暮らしているのではないか」という拭い難い引け目を育んでいきました。この幼少期の階級意識が、後に彼を左翼運動の挫折へと向かわせ、ペンネーム「太宰治」を名乗る動機となっていきます。