『風の谷のナウシカ』の制作母体となったのは、株式会社徳間書店と、後にスタジオジブリの母体となるアニメ制作会社トップクラフトである。月刊『アニメージュ』での漫画連載から始まった企画は、極めてタイトなスケジュールと限られた予算のなかで映画化が進められた。
当時のアフレコは、現在のように個別に音声を収録して後からデジタル処理する手法とは異なり、演者全員が一つのスタジオに集まり、数本のマイクを入れ替わり立ち替わり共有する集団録音方式だった。ベテランと若手が同じ空間で呼吸を合わせ、互いの熱量に当てられながら芝居を高め合っていった。
作画の遅れから、アフレコ当日は未完成の線画や絵コンテ撮りの映像を見ながら声を当てる過酷な環境だったと伝えられている。しかし、声優陣は完成画面を頭の中で補完しながら、宮崎監督の妥協なき演出要求に全力で応えた。この極限状態のスタジオワークが生み出した熱気こそが、直後のスタジオジブリ設立へと繋がるエネルギー源となったのである。