完顔阿骨打とは?金の建国から遼滅亡の真相と死因まで徹底解説

完顔阿骨打とは?金の建国から遼滅亡の真相と死因まで徹底解説

完顔阿骨打とは?金の建国から遼滅亡の真相と死因まで徹底解説について重要なポイントを解説いたします。最新の情報をご確認ください。

破竹の快進撃を続け、東アジア最強の覇権を握りつつあった阿骨打でしたが、その最期は突如として訪れました。

完顔阿骨打の死因について、『金史』巻二・本紀第二には、燕京の引き渡し交渉や領土確定を終えて本拠地(上京会寧府)へと凱旋する途上の1123年8月(旧暦)、部仏滸(現在の吉林省扶余市付近)の陣中で病に倒れ、そのまま帰らぬ人となったと記録されています。享年56歳でした。

死因の具体的な病名までは明記されていませんが、現代の歴史医学的検証や当時の気候データから、以下の複合的要因が有力視されています。

  • 極度の過労と肉体的負担:挙兵からわずか8年間、自ら常に前線に立ち、馬上で指揮を執り続けたことによる極度の疲労蓄積。
  • 度重なる戦傷の後遺症:若い頃から多くの激戦をくぐり抜けており、負傷の痕が身体を蝕んでいたこと。
  • 過酷な環境下での急激な体調変化:長距離遠征と気候差による脳心血管系疾患、あるいは急性の重篤な内科的疾患(脳卒中や急性心不全など)。

阿骨打の死後、弟の呉乞買が第2代皇帝(太宗)として即位。阿骨打が敷いた強固な軍事基盤と後継体制が盤石であったため、リーダーの急死による内乱や混乱は一切起きず、金はそのまま遼を完全消滅させ、さらには北宋の首都・開封を陥落させる「靖康の変(1126〜1127年)」へと突き進むことになります。

高橋 健太
著者

高橋 健太

Webメディアでの編集・執筆歴10年。読者の好奇心を刺激するストーリー作りを心がけています。