2026年に公開され、世界各国の映画祭で絶賛を浴びたドキュメンタリー映画『スープとイデオロギー』は、ヤン監督、母・姜貞姫さん、そして夫・荒井カオル氏の3人を軸に展開します。
本作のハイライトの一つは、ヤン監督が初めて日本人男性である荒井氏を大阪の生家に連れて行き、母に紹介する場面です。母の姜貞姫さんは、生涯を朝鮮総連の活動に捧げ、1970年代の「帰国事業」によって3人の息子(ヤン監督の兄たち)を北朝鮮へ送り出した過去を持ちます。同時に、若き日に故郷の韓国・済州島で数万人が虐殺された「済州島四・三事件」を生き延び、日本へ密航してきたという、苛烈な歴史のトラウマを胸の奥深くに封印していました。
「日本人の夫を連れて行ったら、オモニはどんな反応を示すだろうか」というヤン監督の不安をよそに、母は荒井氏を笑顔で温かく迎え入れました。そして、済州島の伝統料理であるニンニクを大量に煮込んだ特製スープ「タッペクスク(鶏の水炊き)」を振る舞ったのです。
アルツハイマー型認知症の進行によって次第に記憶が曖昧になっていく母の傍らで、荒井氏はエプロンを締め、母から門外不出のスープのレシピを熱心に教わりました。思想や国境によって家族を引き裂かれてきた母にとって、偏見なく自分の料理を「美味しい」と平らげ、家族の輪に入ってくる荒井氏の存在は、晩年の大きな救いとなりました。荒井氏がスープの味を受け継ぐプロセスは、単なる調理の継承ではなく、虐殺の恐怖とイデオロギーに翻弄された個人の記憶を次世代へ引き継ぐ象徴的な儀礼となったのです。