大手掲示板や知恵袋、SNSのコメント欄を分析すると、「裁判所が間違えて無罪にしたのだから、間違いが分かった時点で正すのが本当の正義ではないか」という意見が圧倒的多数を占めます。実際に過去、目撃証言の変遷や科学鑑定の不備によって無罪判決が確定した事件の遺族手記には、「加害者が自由を謳歌している現実を受け入れられない」「法の壁に殺された」という悲痛な叫びが綴られています。
法廷を取材し続ける司法記者として、その感情を否定することは誰にもできません。しかし、司法実務の現場では、まさにその「感情」こそが最も危険視されます。
昭和25年の最高裁判所大法廷判決をはじめとする一連の確定判例において、司法は「国家の誤判リスクと訴訟追行の負担を、個人の人生に二度負わせてはならない」という判断を揺るぎなく維持してきました。裁判を行うプロセスそのものが、被告人にとっては身柄拘束、社会的信用の喪失、莫大な弁護費用という苛烈な苦痛を強いるものです。もし「真実の発見」を錦の御旗にして際限のない起訴を認めれば、検察官は一度敗訴しても、市民の財力や精神力が尽き果てるまで別のアプローチで起訴を繰り返すことが可能になってしまいます。
実務家が口を揃えるのは、「検察組織に対する強烈な緊張感の維持」という副次的効果です。「一度でも無罪が確定すれば、二度とやり直すことはできない」という絶対的な背水の陣があるからこそ、検察は杜撰な証拠での起訴を躊躇し、慎重な捜査を尽くさざるを得ません。一事不再理は、皮肉にも警察・検察の権力行使を厳しく律するブレーキとして機能しているのです。