戦争が激化するにつれ、中野学校の役割は海外への諜報員派遣から、本土決戦や占領地防衛を見据えた遊撃戦(ゲリラ戦)要員の養成へとシフトしていきました。1944年には静岡県に「二俣分校」が開設され、敵陣の背後に残ってゲリラ戦や情報収集を継続する「残置諜者(ざんちちょうじゃ)」の育成が本格化します。
この二俣分校を卒業し、後世にその名を世界中に知らしめることになったのが小野田寛郎(おのだ ひろお)陸軍少尉です。小野田氏は1944年末、フィリピンのルバング島に派遣される際、上官から次のような厳命を受けていました。
「一切の自決を禁ず。3年でも5年でも頑張れ。必ず迎えに行く。それまで兵1人でも生き延びてゲリラ戦を続けよ」
1945年8月に日本が降伏した後も、小野田氏は「降伏の知らせは米軍による謀略工作である」と判断し、ジャングルに潜伏。中野学校で叩き込まれたサバイバル技術、気配を消す術、情報分析能力を極限まで駆使し、1974年(昭和49年)に救出されるまでの約30年間、たった一人になっても任務解除の命令を待ち続けました。小野田氏の超人的な潜伏生活は、中野学校の教育がいかに強烈かつ実践的であったかを証明する歴史の生き証人となったのです。