本作を語る上で欠かせないのが、東アジア映画界を牽引してきた巨匠たちの遺伝子だ。かつて是枝裕和が『ベイビー・ブローカー』で見せた他者への眼差しや、ポン・ジュノが『パラサイト 半地下の家族』で世界に叩きつけた構造的格差への批評精神が、本作の奥底にも確かに脈打っている。だが、本作は彼らのフォロワーにとどまらない独自性を確立した。
母語の異なる登場人物たちが交わす会話劇は、単なる字幕付きのコミュニケーションではない。発音のズレ、言い淀み、沈黙の間合いそのものが感情のグラデーションとして機能する多言語映画の新たな到達点だ。言語の違いを障害として描くのではなく、互いの輪郭を確かめ合うための純粋な手触りとして再定義している点が、国際的な映画祭で絶賛を浴びた最大の要因だ。