最後の元老・西園寺公望の実像|なぜ軍部の暴走を阻めなかったのか

最後の元老・西園寺公望の実像|なぜ軍部の暴走を阻めなかったのか

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西園寺公望の内閣総理大臣の経歴を語る上で外せないのが、日露戦争直後から約10年間にわたって続いた「桂園時代」です。明治34年(1901年)から大正2年(1913年)にかけて、長州閥の軍人政治家・桂太郎と、公家出身で立憲政友会総裁の西園寺公望が交互に政権を担当しました。

伊藤博文から立憲政友会総裁のバトンを譲り受けた西園寺公望は、観念的な政論に走ることなく、極めて柔軟な政党政治の定着を目指しました。当時、衆議院の過半数を握る立憲政友会と、貴族院および軍部・官僚機構を牛耳る山県系藩閥勢力は激しく対立していました。桂太郎と西園寺公望は、政策ごとの妥協と相互承認を重ねることで、議会での予算成立と政局の安定を実現させたのです。

この桂園時代の政治手法には、功罪両面が存在します。功績としては、内乱やクーデターを引き起こすことなく、議会制民主主義のレールを日本社会に不可逆的に敷設した点が挙げられます。一方の影として、政友会内部で原敬ら実務派が推し進めた鉄道敷設や港湾整備などの「利益誘導型政治」が定着し、汚職や政党腐敗を招く温床を作ってしまった事実も否定できません。

清廉潔白で宮廷貴族の超然とした品格を保っていた西園寺公望は、泥臭い党務や利権調整の実務を腹心の原敬に任せきりにする傾向がありました。この「超然としたトップと実務を取り仕切る幹事長」という二元構造は、後の昭和期において政党政治が民衆の信頼を失い、軍部の「政党打破」というポピュリズムに絡め取られる遠因ともなりました。

松本 悠斗
著者

松本 悠斗

マネー知識やキャリア形成に役立つノウハウを、初心者にも分かりやすく解説するのが得意です。