慶応3年(1867年)10月、第15代将軍・徳川慶喜は政権を朝廷に返上する「大政奉還」を行いました。これは幕府の敗北を意味するものではなく、朝廷には独自の統治能力がないことを見越し、「徳川家を中心とした諸侯会議」によって新政府の実権を握り直すという慶喜の高度な政治戦略でした。
しかし、徳川家を完全に排除したい薩摩藩・長州藩は、同年12月に「王政復古の大号令」を発令。徳川家の官位剥奪と領地返上(辞官納地)を突きつけ、慶喜を政治的に追い詰めました。これにより両派の対立は決定的な武力衝突へと発展します。
【戊辰戦争の主な経緯と佐幕派の軌跡】
- 鳥羽・伏見の戦い(1868年1月):旧幕府軍と新政府軍が開戦。新政府軍に「錦の御旗」が掲げられたことで、旧幕府軍は突如として「朝敵(国家の敵)」の烙印を押され、慶喜は江戸へ脱出。
- 江戸城無血開城(1868年4月):勝海舟と西郷隆盛の会談により江戸総攻撃が回避され、徳川宗家は恭順の姿勢を示す。
- 上野戦争・北越戦争(1868年5〜7月):彰義隊の壊滅や河井継之助率いる長岡藩の奮戦など、各地で佐幕派残党の抵抗が続く。
- 会津戦争(1868年8〜9月):奥羽越列藩同盟を結成した東北諸藩と新政府軍が激突。会津藩は鶴ヶ城で壮絶な籠城戦を展開するも降伏。白虎隊の自刃など多くの悲劇を生んだ。
- 箱館戦争(1868年12月〜1869年5月):榎本武揚や土方歳三らが五稜郭を拠点に「蝦夷共和国」を樹立して抵抗するが、土方の戦死を経て降伏。戊辰戦争が終結した。
戊辰戦争の敗北により、佐幕派の政治的野心は完全に潰えました。会津藩は下北半島の不毛の地・斗南(となみ)藩へ移封され過酷な生活を強いられるなど、多くの佐幕派勢力が苦境に立たされました。しかし、榎本武揚のようにその才覚を評価されて明治政府の閣僚となった人物や、幕臣出身でありながら日本資本主義の父となった渋沢栄一のように、佐幕派の人材と近代化思想は形を変えて近代日本の礎へと昇華していきました。