この句を巡る最大の文学的ミステリーであり、探求者の知的好奇心を刺激してやまないのが、五月雨をあつめて涼し最上川 推敲理由です。芭蕉は元禄2年(1689年)6月1日、山形県北村山郡の要衝であった大石田(現在の大石田町)を訪れました。この逗留時に開かれた句会で披露された初案は、以下のような形でした。
「五月雨をあつめてすゞし最上川」
決定稿の「早し」と比べると、受ける印象は180度異なります。なぜ当初は「涼し」と詠まれたのか。そこには、連歌・俳諧の場における「座の文芸」としての厳格な作法がありました。大石田で芭蕉と曾良を歓待したのは、豪商であり熱心な俳諧愛好家でもあった高野一栄(たかのいちえい)をはじめとする地元の文人たちです。梅雨の蒸し暑い中、旅の疲労を抱えてたどり着いた芭蕉に対し、主人は贅を尽くした料理と涼やかな座敷を用意しました。
芭蕉が発句として差し出した「涼し」の一言は、「皆様の心づくしのおもてなしと川風のおかげで、長雨の鬱陶しさを忘れ、何とも心地よい涼感を味わっております」という、亭主への最上級の感謝を込めた社交辞令(挨拶句)だったのです。当時の俳諧において、主客の融和を図る挨拶の要素は極めて重んじられていました。
しかし、芭蕉の旅はそこで終わりませんでした。大石田を後にした芭蕉一行は、本合海(もとあいかい=新庄市)から船に乗り、日本海側の酒田を目指して最上川を下ることになります。そこで待ち受けていたのは、風雅な「涼しさ」など一瞬で吹き飛ぶような、大自然の獰猛な脅威でした。