馬車道の交差点角に凛として佇む馬車道大津ビル(旧東京海上火災保険横浜支店ビル)は、この通りを代表する昭和初期の近代建築です。竣工は1936年(昭和11年)。設計を手掛けたのは、愛知県庁舎の設計競技でも知られる名建築家・木子幸三郎です。戦前のモダニズムとアールデコ様式が絶妙に融合した外観は、幾何学的なタイル貼りや窓周りのレリーフが特徴で、派手な装飾を排しながらも銀行・保険会社特有の堅牢な威厳を漂わせています。
実際に建物の内部に足を踏み入れると、外の喧騒が嘘のように静まり返り、冷涼とした空気が漂います。筆者が現地を取材した際、特に目を奪われたのが中央階段室の意匠です。真鍮製の手すりには経年変化による深い艶が宿り、段鼻に埋め込まれた滑り止め金具一つひとつに職人の手仕事が息づいています。地下へと続く重厚な鉄扉や、幾何学模様が施された磨き出しの人造大理石は、大量生産の現代建築では決して再現できない質感を保っています。
現在、ビルの低層部や地下フロアには、空間の陰影を活かした人気レトロカフェやデザインギャラリー、ヴィンテージショップが入居しています。天井高3.5メートルを超える開放的な空間に、当時の船舶用照明やアンティーク家具が配置され、週末には珈琲の香りを求めて多くの来訪者が列を作ります。「壁面の傷や真鍮のくすみ自体が、どんな最新内装よりも雄弁な物語を語ってくれる」と語るカフェ店主の言葉通り、ここは単なる商業施設ではなく、昭和の時間を五感で追体験できる生きた博物館といえます。