後藤象二郎の生涯と大政奉還の真実!龍馬との絆から華麗なる子孫まで徹底解剖

後藤象二郎の生涯と大政奉還の真実!龍馬との絆から華麗なる子孫まで徹底解剖

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後藤象二郎は天保9年(1838年)、土佐藩の上士(上級武士)である馬廻役・後藤正澄の長男として高知城下に生まれました。幼くして父を亡くした後は、叔父であり土佐藩の改革派重臣であった吉田東洋に引き取られ、徹底した英才教育と合理的な政治思想を叩き込まれます。

文久2年(1862年)に恩師・吉田東洋が尊皇攘夷派の「土佐勤王党」によって暗殺されると、後藤は一時失脚するものの、藩主・山内容堂の信任を得て復権。藩の最高実力者(参政)へと駆け上がります。その後、土佐勤王党を徹底的に弾圧し、首領の武市半平太(瑞山)を切腹へと追い込みました。

しかし、後藤の真骨頂は単なる保守派にとどまらなかった点にあります。時代の潮流が倒幕へと傾くなかで脱藩者・坂本龍馬と劇的な和解を果たし、慶応3年(1867年)には徳川慶喜へ大政奉還の建白書を提出。明治維新後は新政府の参議に就任し、外務・内政の要職を歴任しました。

明治6年(1873年)の「明治六年政変(征韓論争)」で西郷隆盛や板垣退助らとともに下野した後は、板垣と手を組み自由党を結成して自由民権運動を主導。後には黒田内閣・第1次松方内閣で逓信大臣、第2次伊藤内閣で農商務大臣を務めるなど、在野と官界を行き来しながら激動の近代化を牽引しました。

時期・出来事具体的な行動と役割当時の立場・関係人物歴史的評価・影響1865年(慶応元年)
土佐勤王党の弾圧武市半平太を切腹に追い込み、藩内の尊攘派を一網打尽にする。土佐藩参政
(山内容堂の側近)冷酷無比な権力者と恐れられるが、藩政の掌握に成功する。1867年(慶応3年)
長崎会談・大政奉還坂本龍馬と和解し、海援隊を公認。「船中八策」をもとに大政奉還を主導。坂本龍馬、徳川慶喜、山内容堂無血の政権交代ルートを開拓し、近代日本の礎を築く。1874年(明治7年)
民撰議院設立建白書下野後、板垣退助らと国会開設を求める運動を展開。自由党の副総理に就任。板垣退助、江藤新平日本の議会制民主主義の源流となる自由民権運動を牽引。1882年〜1883年
欧米視察と外交板垣とともに欧米各国の政治体制を視察。パリでルイ・ヴィトン製品を購入。板垣退助、海外要人国際的な見識を広げ、後の閣僚復帰への布石を打つ。1888年〜1894年
内閣閣僚として入閣大同団結運動から政府へ取り込まれ、逓信大臣・農商務大臣を歴任。黒田清隆、伊藤博文、岩崎弥太郎通信・産業の近代化を推進。政商・三菱との癒着批判も受ける。
山崎 陸
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山崎 陸

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