この凄惨な血の事件は、江戸庶民の格好のゴシップとなり、やがて舞台芸術へと昇華されていく。幕末から明治にかけて活躍した劇界の巨星・河竹黙阿弥らの手によって、事件は歌舞伎の名作『籠釣瓶花街酔醒』へと結実した。
舞台上の佐野次郎左衛門は、顔にあばたを持つ純朴な男として描かれる。八ツ橋の「愛想尽かし」に耐え兼ね、「いっそ殺してくだんせえ」と呟く名場面は、観客の涙と恐怖を同時に誘った。黙阿弥が巧みだったのは、遊女側の過酷な年季奉公と客側の狂気という、どちらも逃れられない宿命の悲劇として再構築した点にある。残酷な流血劇を様式美と哀愁のドラマへと変容させたことで、事件の記憶は日本人の集合的無意識に深く刻み込まれることとなった。