田沼意次を排除した後、治済が次代の老中首座として抜擢したのが、名君の誉れ高かった白河藩主の松平定信でした。吉宗の孫であり、清廉潔白で知られた定信を前面に押し立てることで、治済は世間の支持を集めつつ、幕政の立て直し(寛政の改革)を推進させます。
しかし、両者の蜜月は長くは続きませんでした。その決定的な亀裂となったのが、歴史上有名な「尊号一件(そんごういっけん)」です。
将軍の実父でありながら官位が従三位にとどまっていた治済に対し、息子の家斉は父へ「太政大臣」あるいは「大御所」の尊号・待遇を贈ろうと画策しました。これに対し、老中首座の松平定信は「将軍職を経験していない実父に大御所の称号を与えるのは先例がない」「幕府財政が逼迫する中で無駄な儀礼に費用を投じるべきではない」と猛烈に反対します。朝廷で起きていた光格天皇の実父(典仁親王)への尊号贈勅問題と連動し、幕府と朝廷、幕閣内部を二分する大論争へと発展しました。
定信の頑なな拒否により尊号獲得は阻まれたものの、治済は焦ることなく定信を孤立させていきます。寛政5年(1793年)、定信は突如として老中を解任され、失脚。結果として、治済の意向に逆らう者は幕閣から一掃され、家斉親政という名のもと、治済が「将軍の実父」として幕政の陰で絶対的な権威を振るう体制が完成したのです。