1615年5月、大坂城天守の炎上とともに豊臣宗家は終焉を迎えた。関白として天下を統一した豊臣秀吉が病没してから17年。後継者たる豊臣秀頼は母・淀殿とともに城内で自刃し、豊臣政権の権威は名実ともに瓦解したとされる。
徳川方の追及は容赦がなかった。秀頼のわずか8歳の庶子・豊臣国松は逃亡先の京都で捕らえられ、六条河原で斬首。さらに秀頼の娘であった奈阿姫は助命されたものの、鎌倉の東慶寺へ送られて出家させられ、天秀尼として生涯を閉じた。これにより、秀吉直系の血筋は公式史料上、完全に断絶したというのが通説である。
だが、厳重を極めた徳川の監視網をすり抜けた「抜け道」は存在しなかったのか。当時の京都や大坂では、落城直後から不穏な噂が民衆の間を駆け巡っていた。