秀吉の晩年、57歳の時に誕生したのが後の豊臣秀頼です。ここで長年議論の的となってきたのが豊臣秀頼の母親の真相と「父親は本当に秀吉だったのか」という疑惑です。
当時から秀吉の高齢出産に対する疑念は根強く、ネットや俗説では「茶々と石田三成の密通説」や「大野治長との不義密通説」などが囁かれてきました。しかし、近年の歴史学界ではこれらの密通説は後世の創作・中傷であり、秀頼は間違いなく秀吉の実子であったとする見解が主流です。秀吉自身、鶴松を授かった際にも自らの血筋であることを疑っておらず、秀頼の誕生時には狂喜乱舞して大坂城をあげて祝典を催しています。
しかし、この秀頼の誕生こそが豊臣秀吉の家系図まとめにおける最大の悲劇を引き起こしました。
秀頼が生まれたことで、秀吉はすでに養子縁組し関白を譲っていた甥の豊臣秀次を邪魔に感じるようになり、文禄4年(1595年)に「秀次事件」を引き起こします。秀次は高野山で切腹させられ、三条河原で妻子・側室39名が無残に処刑されました。
この粛清により、豊臣家は自ら有能な一族・親族ネットワークを壊滅させてしまいました。秀吉没後、幼少の秀頼を守るべき「豊臣一門の盾」は存在せず、政権は徳川家康の謀略の前に脆くも瓦解していくこととなったのです。