マカートニーの失敗から23年後の1816年、イギリスは再びウィリアム・アマーストを正使とする第2回使節団を派遣しました。当時の清朝皇帝は嘉慶帝(乾隆帝の後を継いだ第7代皇帝)でした。この時、儀礼を巡る対立はマカートニーの時以上に泥沼化します。
清朝側は前回の反省から、「三跪九叩頭を行わない限り皇帝への謁見は一切認めない」と強硬姿勢を崩しませんでした。アマーストは長旅の疲労と随行員たちの病気を理由に時間的猶予を求めましたが、清朝の宮内官僚は彼らを強引に宮殿へと連行しようとしました。激怒したアマーストは儀礼の練習すら拒絶し、嘉慶帝は「天朝を侮辱した」としてアマースト一行を謁見させることなく即日追放処分に付しました。
このアマースト使節団の屈辱的な追放劇は、英本国の世論を急速に強硬論へと傾斜させました。英国議会や東インド会社の商人層の間では、「清朝の閉鎖的かつ傲慢な専制体制は、外交的対話ではもはや是正できない」「砲艦外交によって武力で道理を教え込むほかない」という好戦的な議論が支配的になっていきます。
その後、清朝によるアヘン密貿易の取り締まり(林則徐によるアヘン没収・廃棄)を直接の契機として、1840年にアヘン戦争が勃発します。戦争の背景には茶と銀の貿易不均衡や麻薬問題が存在したことは確かですが、その心理的導火線には「三跪九叩頭」という身体的服従儀礼を押し付けられ続けた大英帝国の根深い怨嗟と不信が横たわっていました。儀礼の衝突は、世界史を近代へと暴力的に引きずり出す決定打となったのです。